聖書メッセージ 『低くなられた救い主』(ルカ2:1~7)

聖書箇所  ルカ2:1~7

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。

2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。

2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。

2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。

2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、

2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 

説教要旨

救い主は歴史のただ中に来られました。イスラエルは当時ローマ帝国によって治められていました。「アウグストゥス(v1)」とは尊称で、最初のローマ皇帝オクタビアヌスのことです。彼はローマの内乱を平定し、紀元前27年に皇帝となり紀元14年まで君臨しました。「これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった(v2)」と歴史的説明が加えられています。ローマ帝国に支配されていた者たちはすべて住民登録のために戸籍地に行かなければなりませんでした。神の民、イスラエルも例外ではありませんでした。異国の支配を覚える屈辱的な命令でした。ヨセフはダビデ王の家系に連なる者で、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムに向かいました。「身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するため(v5)」どのような状態であってもすべての者が住民登録をしなければならない強制的なものだったのかもしれません。またマリアへの中傷が酷くヨセフはマリアを一人ナザレに置いておくことができなかったのかもしれません。ベツレヘムに二人で向かいました。課せられた自らの務めをなしました。二人の予定では登録を済ませナザレに戻る予定だったのでしょう。しかしベツレヘムにいる間にマリアは男子の初子イエスを産みました。しかし、それは救い主がベツレヘムで生まれるとの神の約束が成就したのです。オクタビアヌスの支配の下で全世界が動き人々の生活がなされていました。神がご自身の民に働いているとは思えないように見えました。でも、神はご自身の救いの計画を進められ、救いの御業をなされたのです。人間が治め人間が営む歴史のただ中に救い主は来られたのです。

 

救い主は低く来られました。「その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである(v7)」それもまた神の救いのご計画の実現でした。救い主は低き者として来られました。マリアへの受胎告知で告げられていたことは、いと高き神の子を聖霊によって身籠ることでした。でも、神の御子が生まれたのは通常人が生まれる場ではない家畜小屋でした。救い主は誰よりも貧しく低く来られました。また、救い主は人々に歓迎されない中で来られました。たまたま歓迎されなかったというのではなく、「宿屋には彼らのいる場所がなかった(v7)」の「なかった(v7)」は、ずっと場所がなかったという継続を表す動詞の形です。イエス・キリストのご生涯、またやがて人々に拒まれ十字架にかかられることを予表しておりました。

 

私たちもローマ帝国に治められていた人々やヨセフ・マリアと重なるのではないでしょうか。私たちは時の政治や経済の影響を受けながら生活し、働いています。ヨセフとマリアのごとく傷つき痛む中に、また自分の願いや計画とは全く異なる中に置かれることがあります。「神さま、あなたの御心が分かりません」との歩みをすることがあります。しかし、まさにそういう歴史、いいえ生活のただ中、生活の隣にいと高き神の子イエス・キリストは来てくださったのです。「神の国は、あなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」そして低く拒まれて来てくださったのです。低くならなければ、私たちの重荷を負うことはできなかったからです。拒まれなければ、十字架の道はなく、罪のゆえに神に拒まれる私たちの身代わりとなって、私たちを罪とその裁きから救うことはできなかったからです。

 

日常のただ中に低くなられた救い主のところに信仰を持った時だけではなく、今自分の抱えている重荷と罪をそのまま持っていきましょう。自分で握りしめずそのまま祈りましょう。主イエスは「曙の光(1:78)」です。今日光を受け照らされ新しい力をいただき今日の務めを担っていきましょう。目の前の私の務めは神の救いの完成に参与しております。