聖書箇所 ヨハネ1:9~13
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
説教要旨
「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた(v9)」「世(v9)」とは、神が造られたこの世界であり私たちです。神は創造者です。私たち人間は神の被造物です。しかし人間は単なる被造物ではなく、人間だけが「神のかたち」に似せて造られました。「神のかたち」とは神と交わりを持つ者、人と交わりを持つ者として造られたことを表しています。私たち人間がまず心を通い合わせる相手は造り主なる神であるのです。しかし人間は食べてはならないと神が命じられた善悪の知識の木の実を食べ、神の命令に従いませんでした。神に従わないことを聖書は「罪」と告げ、罪のゆえに人は神との交わりを失いました。それを聖書は「死」と告げます。聖書が告げる「死」は、肉体の死だけではなく、神との交わりを失っている状態を意味します。すなわち「世(v9)」とは、神が造られた世界私たちであり、神に従わず神との交わりを失っている世界私たちです。暗闇の世です。
クリスマスは、その暗闇の世に神が救い主イエス・キリストを与えてくださった出来事です。イエス・キリストは「すべての人を照らすまことの光(v9)」であり、世に来たのです。しかし、「世」はその救い主を受け入れませんでした。(v10、v11)イエス・キリストは家畜小屋で生まれました。人々に歓迎されませんでした。イエス・キリストは神のひとり子、救い主としての「しるし」を数多くなされました。しかし、宗教指導者はイエスを妬み、神を冒涜しているとし、裁判にかけ、ローマの極刑であった十字架刑へと導きました。イエスは十字架で苦しまれた最後の方で二つの言葉を仰せられました。「わたしは渇く(19:28)」。ローマ兵士たちは喉が渇いたと思いました。続いて「完了した(19:30)」。息を引き取られました。主イエスは家畜小屋で生まれ、人々に退けられ、無残に十字架上で死なれました。でもそれは人の側から見える面でした。しかしこれこそが神の救いの御計画でした。これこそがイエス・キリストがまことの光としてすべての人を照らす御業でした。神のひとり子で神とのいのちある交わりのお方が私たちの身代わりに神に裁かれ神に捨てられ渇かれたのです。私たちの罪の償いを成し遂げられ、すべての人を照らす御業、いのちをもたらす御業を完了されたのです。神はイエス・キリストを死の中から復活させ、イエス・キリストは死に打ち勝たれたのです。
イエス・キリストを救い主と受け入れ信じる人々は、暗闇が照らされ、神の子どもとなる、神との交わりである永遠のいのちを新しくいただくことができるのです。これは人間によるのではなく、「ただ、神によって生まれたのである(v13)」と神ご自身が私たちに新しいいのちを与えてくださるのです。但し、ヨハネは、ここでイエス・キリストを信じた人々には永遠のいのちをお与えになったとは記しませんでした。「神の子どもとされる特権をお与えになった(v13)」と記しました。「特権(v13)」とは「立場とそれに伴う歩み(行ない)」を表しています。失われていた神との交わりをいただいただけではない。神は私たちを神の子どもとしてくださり、私たちとともにおられ、私たちを知り、助け、守り、ご自身に似る者とし造り変え、そして肉体の死を越え神がおられる天国の住まいへと導き入れてくださるのです。
私、あなたにはどうすることもできない闇があるのではないでしょうか。イエス・キリストは私たちを照らすために来てくださったのです。イエス・キリストを自分の救い主として受け入れたいと願います。神の子どもとされたクリスチャンもこの世の患難の中で苦しみや恐れに満ちることがありますが、イエス・キリストを通して「天の父よ」と切に祈り、世にはない神ご自身の慰め・神ご自身の力・神ご自身の助けをいただいて、神の光の中を、神の守りの中を歩ませていただきましょう。