聖書メッセージ『全き愛』(ヨハネ13:1)

聖書箇所  ヨハネ13:1

13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。

 

説教要旨

2025年年間聖句はヨハネ13章1節、年間主題は「主の愛を知り生きる教会」です。主の愛を知り、主の愛に応答して生きることをこの一年見ていきます。ヨハネ福音書は主イエスの十二弟子の一人ヨハネが晩年に記しました。年間聖句は福音書後半冒頭で、今後主イエスが十字架の死に向かわれていくことを記すにあたっての最初の言葉です。「過越の祭り(v1)」とは、神の命令により子羊が屠られ、神がイスラエルの民をエジプトから脱出させた神の救いの御業を覚える祭りでした。その前のこと、主イエスは「この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた(v1)」のです。(12:23)(12:27)主イエスはエルサレムに入られ、父なる神に従われ、ご自身が死なれる時が来たことを知っておられ、その道に従っていく覚悟を持たれていました。いわばご自身が過越の子羊となって死に神の救いの御業がなされる時が来たことを知っておられたのです。主イエスは単に宗教指導者に妬まれ、弟子のユダに裏切られ、捕らえられ、裁判を受け、不意に十字架に架かられ死んでいかれたのではありませんでした。父なる神の御旨に従い、自ら十字架の道をたどられていかれたのです。

 

ご自身の死の時が来たことを知っておられた中で、「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された(v1)」「世にいるご自分の者たち(v1)」とは主イエスに従ってきた弟子たちでした。「世にいる(v1)」とあります。ご自身は「世」を去っていく、しかし弟子たちは「世」に残ることを覚えておられました。その「世」には罪が入ったために様々な苦難があること、また主イエスに従う者を揺さぶる戦いがあることを覚えておられました。主イエスはその「世」にいるご自分の者たちを「最後まで(v1)」愛されたのです。「最後まで(v1)」とは一つは時間的な意味です。ご自身が十字架に架かり死なれ、復活され、父のみもとに行かれる最後の時まで弟子たちを愛されたのです。もう一つは内容的な意味です。極みまで(一つも控えておく部分がなく)弟子たちを愛されたのです。そして、「愛する」とは、相手の状態にかかわらず、一方的に愛する、大事にするということです。教えも、祈りも、十字架の死も、復活も、すべての根底にあったのはご自分の者たちへの「愛」でした。そして最大の愛の現われが、主イエスの十字架の死でした。(ヨハネ15:13)

 

改めて覚えます。主イエスはご自分の者たちを最後まで愛された、そこには私たちが入っているのです。ここでヨハネは「世にいる弟子たち」ではなく、「世にいるご自分の者たち(v1)」と記しました。(17:20)いいえ、「教会」「私たち」と十把一絡げではない。復活された主イエスは、主イエスを失い絶望し立ち尽くしていたマグダラのマリアに現れ「マリア」と名を呼ばれました。主イエスの復活を信じられなかったトマスに現れました。ご自身を裏切ったペテロに「ヨハネの子、シモン」と三度名を呼ばれ弟子として立ち直らされていかれました。当のヨハネは最後の最後で「イエスに愛された弟子(21:20)」と自らを記しました。主はあなたを愛しておられます。しかし「それでも私は」と思ってしまいます。でも、主の愛はアガペーの愛、一方的な愛です。私たちがどういう状態であろうとも、私たちが自分をいかに思うとも主イエスは一方的に私たちを愛しておられ、大事にされておられ、私たちに永遠のいのちを与えるために自ら十字架で命をお捨てになられたのです。

 

2025年を迎えました。主イエスは世にいる私たちを最後の時まで極みまで愛してくださっておられることを心に刻みたいと願います。主イエスの愛の深さ、広さ、細やかさを知り、主イエスの愛に応答して生きる一年とさせていただきましょう。