聖書箇所 ヨハネ15:1~8
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
説教要旨
13章~14章は御霊による御父及び御子との弟子たちの愛の交わりが主に語られてきました。15章~16章は弟子たちが世に遣わされていくことが主に語られています。主イエスはご自身はぶどうの木、御父は農夫、弟子たちは枝と語られています。ぶどうの木は一本の幹から枝が広く張っています。主イエスはご自身が「まことの」ぶどうの木と仰せられました。旧約時代はイスラエルの民が「ぶどうの木」でしたが、神との契約に不従順で、諸国に神の祝福をもたらしませんでした。そのような民に代わって、神はイエス・キリストをぶどうの木とされ、枝である教会を新しい神の民とし、多くの実が結ばれることを語られました。主イエスはまず「農夫(v1)」である父なる神と弟子たちとの関係を語られました。父なる神は入念に弟子たちを実を結ぶようにされます。(v2)農夫は実を結ぶ枝をもっと多くの実を結ぶように刈り込みをします。「刈り込み(v2)」との言葉は、続く「きよい(v3)」との言葉と同根で、父なる神は主イエスの御言葉(福音)によってすでにきよめられた弟子たちを、主イエスの御言葉によってさらにきよめ豊かな実を結ぶようにされるのです。続いて主イエスはご自身と弟子たちの関係をお語りになられます。「わたしにとどまりなさい(v4)」これはきっぱりとそういう姿勢を取りなさいとの動詞形となっています。v5でも「わたしが人にとどまり、人もわたしにとどまっているなら」ではなく、「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら(v5)」との順序で語られ、こちらは継続を表す動詞形となっています。クリスチャンの信仰の姿勢と歩みが語られています。私たちは神の恵みによって主イエスに結び合わされましたが、その恵みに安穏としていてよいのではありません。主イエスにとどまるという姿勢を取り、主イエスにとどまり続けて歩んでいくのです。主イエスにとどまるとは、主イエスの御言葉ととともに歩んでいくことであり(v7)、それは父なる神が主イエスの御言葉によって弟子たちをきよめ豊かな実を結ばせると語られたことと重なっております。(v2~v3)
では、主イエスの御言葉とともに歩んでいくときに結ばれていく「多くの実」とはどのようなことでしょうか。「あなたがたが行って実を結び(v16)」。ぶどうの木の枝が広く張って実を結ぶごとく、神の国(神の愛と救い)が世に広げられていくことです。神の祝福の基となって神の祝福を現わしていくという旧約時代のイスラエルの民ができなかったことを教会がなしていくことです。祈り、御霊によって世に神の御思いを現わし、神の栄光が現わされていくことです。(v8)私たちの持ち場に愛の実が結ばれ、神の国が広げられていくことです。
その歩みのために、主イエスは私たちにはっきりと仰せられます。「わたしにとどまりなさい」「わたしにとどまっているなら」と。「わたしに」と。私たちを愛し、十字架で私たちを支配していたサタンと罪に打ち勝ってくださった「わたし」です。先立って戦ってくださる「わたし」です。(18:1~2)主日の朝、新たに主イエスにとどまるとの信仰の姿勢を明確に取りたいと願います。一日の初めに新たに主にとどまるという信仰の姿勢を取りたいと願います。そして、日々また一日の歩みの中で主イエスとともに歩み続けていきます。罪に打ち負けてしまうこともあるでしょう。その罪を悲しみ、でも「自分はダメだ」ではなく、主にとどまらなければ打ち負けてしまう弱さを学び、新たに主イエスにとどまる信仰の姿勢を取り、主にとどまり続けていきましょう。あるクリスチャン男性は仕事を終え、家に帰りドアノブに手をかける時、「まだもう一仕事残っているぞ。主よ、助け守ってください」と主イエスとともに家に入るそうです。「わたしにとどまりなさい」「とどまっているなら」そこに神の栄光が現わされる小さくてもいのちある実が結ばれていく歩みがあるのです。