聖書箇所 ヨハネ16:17~28
16:17 そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」
16:18 こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。
16:19 イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
16:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
16:21 女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。
16:22 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
16:23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
16:24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。
16:25 わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。
16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」
説教要旨
弟子たちは主イエスが自分たちから去り、また世において反対や迫害を受けることを主から告げられ、心が悲しみでいっぱいになり「どこに行くのですか」と主イエスに尋ねることができなくなっていました。(v5~v6)主イエスはその弟子たちにご自身が去っていくことは弟子たちにとって益であり、助け主なる聖霊が来て彼らを「すべての真理に導いてくださいます(v13)」と仰せられました。そして主イエスは「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、また、しばらくすると、わたしを見ます(v16)」と仰せられました。この言葉によって、心が悲しみでいっぱいになって尋ねることができなかった弟子たちの内に議論が起こり始めました。トマスの尋ねも(14:5)、ピリポの尋ねも(14:8)、ユダの尋ねも(14:22)、主イエスが引き出されたものでした。ここでも同じような形です。弟子たちは主イエスの言葉について議論し始めました。(v17、v18)主イエスはそんな彼らに直ぐに気づかれました。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなる(v19)」とは十字架の死を語っています。弟子たちは嘆き悲しむのです。「またしばらくすると、わたしを見る(v19)」とは主イエスが復活され聖霊が遣わされることが語られています。そして「あなたがたの悲しみは喜びに変わります(v20)」と。
何による喜びなのでしょうか。「その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません(v23)」主イエスがこの私を愛し、私の罪のために十字架に死なれ、よみがえり、この私が赦され神の子どもとされるという主イエスの救いを本当に理解し知っていくのです。さらには、父なる神をはっきりと知っていくのです。(v25)父なる神が自分を愛しておられることを知っていくのです。それで心は喜びに満たされるのです。
さらには、主イエスが復活され聖霊が遣わされる時、弟子たちは祈る恵みにも与っていくことが語られています。(v23~v24)(v26~v27)主イエスの贖いの死が父なる神にはばかることなく祈ることを可能にしてくれるのです。イエスさまの名前を通し父なる神に直接祈ることができるのです。J・I・パッカーは、愛するとは「相手に対し善きことをなし、その結果相手がより優れた者となること」と述べています。「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます(v23)」と約束されています。私たちの思い通りということではないのですが、私たちにとって真に益となるものを父なる神は与えてくださるのです。「父ご自身があなたがたを愛しておられる(v27)」からです。祈り、主の恵みに与りながら生きていくことができるので心が喜びに満たされるのです。喜びの約束の言葉の中で、主イエスの命令が一つだけ語られています。「求めなさい(v24)」と。置かれていく状況に心が悲しみでいっぱいになって尋ねることができなかった弟子たちがいました。(v5~v6)主イエスの言葉に引き出されて互いに論じ合いますが主イエスには尋ねていない弟子たちがいました。(v17~v19)そしてあたかもすべてが分かったかのようになり実際には主イエスから離れてしまう弟子たちがいました。(v29~v30)そういう中で「求めなさい(v24)」と主イエスは命じられています。置かれた苦しみに心が悲しみにいっぱいになってしまい主に尋ね求めることができない私がいます。また、人とは話したり自問自答を繰り返しますが主のもとに持っていかない私がいます。そして自分は主のことが分かったように思って主を求めず結局主から遠いところを歩んでしまう私がいます。でも、主イエスはそういう私たちを愛して語っておられます。「求めなさい(v24)」と。「父ご自身があなたがたを愛しておられる(v27)」のだからと。父なる神は良きをなし、益を与えてくださる。そして「あなたがたの悲しみは喜びに変わります(v20)」